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TamaHito 14 
濱田 正喜さん
多摩村から多摩町、多摩市へ その変遷の中で感じたことは

変わるまちを見つめ、まちのために…

「代々ここの生まれです。濱田家は、鎌倉の落ち武者といわれる“六軒百将”のうちの一軒だったんです」と話してくれたのが濱田正喜さん。この地で、83年の年月を重ねてきました。

多摩中学在学時には、担任の下村先生の指導のもと、郷土研究部の部長として稲荷塚古墳や庚申塚古墳の発掘、集落の聞き取り調査を行ったと。

「下村先生の話が面白くて、どんどん興味が深まっていったんです。中学卒業後は私は就職しましたが、仲間と数年間は調査を続けました。面白かったですねえ」

就職したことで社会に目を向けその仕組みを学ぶ中、若き濱田さんはさまざまな矛盾を感じるようになりました。

「で、格差をなくしたいと一貫して思うようになり、おかしいことはおかしいとハッキリ言ったり、活動するようになったんです」

そして58歳で退職。自治会の会長に。そこからは、地域の人から何か頼まれると「どうすればいいだろう」と考え、自治会の皆と共に行動し続けました。瓜生せせらぎ散歩道の整備を市に働きかけたり、御嶽神社の初詣をスタートさせたり、資源ゴミ回収を始めたり、自主防災組織を立ち上げたり。

「ニュータウン開発が進んでいたときには、貝取山の自然を原型のまま残すことができました」

今、その自然は貝取山緑地として、地域の人々の憩いの場所になっています。

1940年当時は小学生 食べ物に困ったなあ

濱田さんは、今年9月に開催予定の「第29回多摩市平和展」で、語り部の一人としてその戦争体験を話します。

「開戦が3歳、終戦は小学生で、それほど覚えてはないんです。でもね、鎌倉街道を低空飛行してきた米軍機のパイロットの顔が見えたこと、横浜大空襲や八王子空襲のときに遠くの空が明るかったのを父と見たことは覚えてます」

戦争の辛さは、何よりも食べ物がなくなっていったことだと。

「家の前の桑畑が、みるみるうちに野菜畑に変わっていきました。自給自足です。でも、我が家は小作農だったから、家で作った農作物は納めなければならなかった。本当に食べ物に困ってましたね。お米のご飯は祭りのときにしか食べられなかったし、サツマイモがごちそうでしたからね」

「ここ最近本当に、平和のために何ができるんだろうと思うんです」

体験を話す・聞くことは平和の種を植えることにつながるのではないでしょうか。そうですよね、濱田さん。

 


濱田さんの奥様が館長を務める「多摩こども郷土資料館」が保管する、地域の戦争にまつわるさまざまな資料

 

プロフィール

1937年、多摩村生まれ。多摩村から多摩町、多摩市へと、まちの変遷を見つめ続けて83年。中学卒業後に勤め始めたオリエント時計(日野市)を58歳で退職後、地域の自治会長を引き受け、地域活動を展開。そのかたわら、奥様の康子さんの地域の文化を守る活動を支える。

「多摩こども郷土資料館」
042-374-2883

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