[みらいへつなぐ]
敵だったはずの中国人のお陰で、生きて帰ってこられた

後列右が文一さん。左から長男・要さん、嫁・静江さん、前列左からひ孫・太祐さん、孫・宏美さん。
昭和19年12月、黒田文一さんの下に召集令状が届きました。
その少し前のこと。
「遅かれ早かれ皆出征する、その前に」と、多摩村落合地区の青年団の仲間で富士登山をしました。この日ばかりは「腐らないように」と、あんこではなく味噌を包んだ酒まんじゅうを母が持たせてくれました。
地下足袋で険しい山道を登り、てっぺんで野宿をして、皆で下山してきました。
81年前の、あの日の話。
現在、黒田さんは朝晩の散歩で多摩市宝野公園の桜並木を歩きながら遠くに臨む富士山を見つめます。
富士山はあの時と同じ、変わりません。
しかしあの仲間たちはもういない……。

戦地で使った水筒と布袋。戦地ではこの水筒が命綱。
黒田さんは、召集令状が届いた1週間後に出発。
下関から貨物船で玄界灘を超えました。
船の揺れがひどく、掴まるところがない貨物船ではひどい船酔いに見舞われたと言います。
満州では、鉄砲を担いで走りまわる毎日。そして、中国で終戦。
けれど日本へ帰る術はなく、中国人農家の仕事を手伝い食いつなぎました。
敵だったはずの中国人はとても優しかった。
言葉は全く通じないけれど、朝から晩まで畑仕事を一緒にし、食卓を共に囲み、ご馳走だった水牛を「遠慮せずに食べて」と言わんばかりに、たっぷりと茶碗に盛ってくれました。
そして、髪が伸びれば、剃刀を使い川の水でながしながら散髪をしてくれたそうです。
敵じゃなかった。その恩を決して忘れることはありません。
「人間は殺しっこしないと生きていけない。今も殺しっこしている。ちったぁ上手いこと言うけれど、欲があるから解決できるわけはない」と黒田さんは、語気荒く語ります。
昭和21年6月、枇杷が実る頃にやっと日本に帰り着くことができました。
実家では父が一人で待っていてくれたと。
以来、黒田さんは多摩で生き、ニュータウン開発ではまちのためにと、畑や山、茅葺き屋根の我が家も供しました。
時代の変化を全て受け入れ、自分の力で突き進んできた人生。
100歳の今、なんと介護認定がつかず健康そのもの!
自分の歯で何でも食べると言います。
大好物は、静江さんお手製のぬか漬け。
今春100歳! 健康の秘訣は、「よく食べて、よく寝て、よく動く」。
生きる力は人一倍!

ひ孫さんからのお祝いの似顔絵を手に、背筋をピンと伸ばして。

100歳のお祝いに、家族・親戚が大集合!
宝野公園にて

ご自宅にて
DATA
黒田 文一さん
大正14年4月6日、多摩市(旧:多摩村)で生まれる。
19歳で中国に出征。帰国後も多摩で暮らし、生き抜き、ニュータウン開発を目の当たりにしてきた。
現在100歳。傍からは波瀾万丈な人生に見えるけれど、本人はいたって「どぉーってことねぇ。無我夢中だっただけさ」と。
編集後記
多摩で生まれ、多摩から戦地に行き、帰国してこの地で今もお元気な黒田文一さん。
「どぉーってことねぇ」という一言で全て片付けてしまう生きる強さに感服。少ない言葉の中でも戦争のことを語るときの語気の強さから、戦争反対への強い思いが胸に強く響きました。
文一さんは100歳にして今もなお介護保険のお世話になっていません。日常生活のお世話をしているご長男夫婦は後期高齢者。もしものために、と月に1度は自費でショートステイを利用しているとか。ここまでお元気でいらっしゃる方々のために、行政は別の支援を用意するべきではと思いました。(五来恒子)
#100歳 #多摩市 #第二次世界大戦 #戦争 #ニュータウン開発 #介護認定