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モリテツのスペイン紀行31「怪!ピレネー山中の巨大駅」(カンフランク)

さて、いよいよピレネー山脈の本峰に向けて出発だ。山には疎いので不安もある。まずは宿で朝食をとった後、旧市街の小さな教会で旅の安全をお祈り。

フランス国境に向けた足は朝夕1本のみ。午前11時59分、ハカ駅発の列車に乗れば、1日遅れでサラゴサを発ったケイル・美帆嬢らと鉢合わせするはずだ。前夜メールがあった。

ホームに列車が滑り込んできた。「Hey!」と窓から手を振って合図してくれ、乗り込むと、ケイル君が「お化け屋敷駅のツアーには申し込んどいたよ」と言ってくれた。

この先30分で列車を降りる。この日一番の楽しみ。ピレネー山脈の真っただ中に、第二次世界大戦前までパリに次いで欧州2番目の規模を誇る巨大駅があったというのだ。

カンフランク国際駅。まさか!という思い。しかも幽霊屋敷みたいに荒れ果てたままなのに、そこは年間2万人が訪れる観光名所という信じられないような話。まさに歴史が生んだ謎の駅だ。

午後12時34分、揃って降りた。確かにデカい。まったく廃墟化している。降りた乗客のほとんどが観光客だった。個人が無断では入れず、若い女性のガイド付き45分間3ユーロのツアーの形。ヘルメットをかぶらせられ案内してくれるが、ほぼ行動自由。

歩いてみると、列車ホームの床も壁も天井も荒れ放題、チケット売り場のロビーも壁が崩れんばかりで見るも哀れ。なんと壊れた客車まで雨晒しのまま放置され、無残な姿を晒している。

説明によると、駅舎は長さ240㍍。365個の窓と156個の扉を備え、フランスの宮殿を参考に建築。当時は豪華さゆえ「山のタイタニック」の愛称もあったという。

一体、なぜ山の中にこんな駅を建設したのか……。このルートがパリとマドリードを結ぶ最短距離だったからだ。ピレネーを越えた仏ポー市まで93㌔と鉄道の距離としては長くはないが、険しい山峡にトンネルを掘り、鉄橋を架け、24年の歳月をかけた。

1928年(昭和3年)の竣工式には仏ガストン・ドゥメルグ大統領とスペイン国王アルフォンソ十三世が参列したというから両国の意気込みがわかる。

ところが、この鉄道を最も利用したのは悪名高きスペインの独裁政権フランシスコ・フランコとアドルフ・ヒットラーだった。フランコは1936年に総統に就くなり、この山岳鉄道をナチスのための物資・食料供給ルートとして利用。ナチスはその後第二次大戦中、カンフランク周辺を占領して封鎖、フランスなどで略奪した金塊などをここに持ち込んで隠匿。さらにそれを資金源にポルトガルから戦車装甲用のタングステンを輸送するなど悪の軍事拠点として活用したのだった。

一方で終戦間際には、迫害から逃れたユダヤ人の逃走ルートとして役立った一面もあり、世界大戦の隠れた主舞台だったのだ。

終戦後、鉄道は再開されたが、地中海・大西洋側で鉄道が整備されると次第に廃れ、1970年仏側国境で起きた列車事故によって鉄橋が瓦解、鉄路は完全に断たれてしまった。

歴史とは皮肉なものである。多数の犠牲者を出して難事業の末、開通した山岳鉄道が仏西交流の市民の足として役立ったのは、戦前の10年たらずと戦後の10数年。ナチスが最大の受益者だった。

そうした歴史を踏まえた上でのことだろう。地元では小中学生の課外授業にも。潰れた国境のトンネルもスペイン国章を飾ってそのまま保存。そのうえで、アラゴン政府と仏ボルドー地方政府は手を携え、一帯を大リゾート地として開発。カンフランク駅のホテル改修など総額2億ユーロ(250億円)を注ぎ込む予定。100年の歳月を経て負の歴史を覆そうとするその努力に、近代文明を築いてきたリーダーならではの誇りを感じた。

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