Tama Hito 57
濱住 治郎 さん
「生まれる前から被爆者、ふたたび被爆者をつくらせないために」
1945年8月6日、何が起きたのか
濱住さんは、1946年の2月に広島市矢賀町で生まれました。
前年の8月6日、朝8時15分。米軍のB29爆撃機エノラ・ゲイが、人類史上初となる原子爆弾を広島の地に投下しました。爆心地から4㌖の自宅にいたお母さんは被爆し、お母さんの胎内で3ヶ月を迎えていた濱住さんも胎内被爆したのです。
6日の朝、濱住さんのお父さんはいつも通り会社へと出勤。爆心地から500㍍の研屋町で仕事をしていました。
原爆投下の後、広島市内に住んでいたお父さんの兄弟は、焼け出されたために倒壊を免れた濱住さんの家にその日のうちに避難。その日、家には親戚やその友人、家族で30人にものぼったと言います。
ところが、いつまで待ってもお父さんは帰ってきません。お母さんは、お父さんを探しに、翌日7日、会社があった場所へと足を運びました。でも熱くて、まちには入れなかったと言います。そして翌々日8日、同じ会社の人の誘導でお父さんが最後にいたはずの場所へとたどり着きました。
「父は直爆死で遺骨はなく、父のベルトのバックルとがま口の金具、溶けてくっついた鍵の3点だけを手にすることができました」
「父を探しに出た家族は、2、3日後から熱・下痢などを発症。我が家に来ていた親戚の友人は、火傷部分にウジがわき、塗り薬がないので擦ったジャガイモを塗るしかなく、しばらくして息を引き取りました。避難していた従兄弟は、3、4日して発熱。髪が抜ける症状が出て亡くなりました。そして、無傷だった3歳の従兄弟も、身重の母の代わりに当日勤労作業に出た叔父も亡くなりました」
幸いなことに、濱住さんの兄姉は軍需工場での勤労奉仕や学童疎開などで離れた場所にいたため6人全員助かりました。が、お父さんは亡くなり、お母さんは、1人で7人の子を育てて生きることになりました。
「私は、父が原爆死したことを聞かされ、部屋にかけられた父の写真を見て育ちました。我が家では、原爆の話もオープンに語られていましたね」
胎内被爆者だからこそ語れる核廃絶への思い
「結婚して子どもを持って、父が原爆死した49歳になった時、兄姉に『8月6日に何があったのか、覚えていることを教えて欲しい』と手紙を出したんです。すぐに返事がきて、自分の中に、あの日のこと、その後のことを残すことができるようになりました」
2003年には東京都稲城市原爆被爆者の会を結成。2007年には、母親の被爆体験を作者の娘である孫に伝える絵本「ピンク色の雲 おばあちゃんのヒロシマ」作りに参加。そのことがきっかけで、稲城平和を語り継ぐ三世代の会を結成し、稲城市内の小学校で被爆体験を語る活動も始めました。
「胎内で3ヶ月だったという運命やいのちの大切さ、生きていることの不思議が感じられて仕方ないのです。父に会ったことはないけれど、父を忘れたことはありません。父とそこにつながる原爆で亡くなった方々の分まで生きようと決めています」
濱住さんは胎内被爆者で、一番若い世代の被爆者の一人です。
「胎内被爆者には小頭症児の事例が見られるように、胎児だったからこその被害を受けている人もたくさんいます。そう、若い細胞が放射線によって侵される影響は計り知れないものがあるんです。胎内被爆者は『生まれる前から被爆者の烙印が押されている』と言われています」
あの日から77年の時がたった今も、原爆の残虐さと放射能は、体、心などに被害を及ぼしているという現実。
「原爆は、人間として生きることも、死ぬことも許さないものなんです」と濱住さん。だからこそ「ふたたび、被爆者をつくらせない、との思いで、戦争も核兵器もない世界に向けて行動していきます」と続けました。
2022年8月、ニューヨークで核拡散防止条約(NPT)再検討会議が開催されます。濱住さんは、2日から9日までで渡米し、参加します。
「公式の場での発言はない予定ですが、さまざまな国の人たちと対話を重ねてきます」
プロフィール
1946年2月、広島市矢賀町生まれ。1945年8月6日、母親の胎内3ヶ月で被爆。母は、父を探すため、7・8日に爆心地から500㍍の地に入市。大学入学で上京。卒業後、稲城市役所に入職。社会教育に携わる。父の没年49歳と同じ年月を重ねた1994年から、あの日、何があったのかを兄弟に尋ね、語るように。2003年3月「稲城市原爆被害者の会」結成。2007年『ピンク色の雲 おばあちゃんの広島』絵本作りに参加、「稲城平和を語り継ぐ三世代の会」結成。小学校で証言を始める。2022年8月NPT再検討会議に参加予定。日本原水爆被害者団体協議会事務局次長。稲城市在住。