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『もしもし』長谷川豊子の生きるということ
 その5「励ましの名人」

その5
「励ましの名人」

私の母は大正8年生まれ。7歳の時に高熱を発症し、以来、耳が聞こえなくなってしまいました。
人とのやりとりは、口話と筆記。それでも人と関わることをいとわず、人とのつながりを深めることを諦めない人でした。

そんな母の姿から学んだことは、諦めないこと。誰が見ていなくてもコツコツ頑張ること。どんな人にも誠実に。当たり前の生き方でした。
母は私が幼い頃から、何かをやろうとすると、「頑張ってやってごらん。一つのことを頑張ったら、次への道が拓けるから」と励ましてくれました。

『奥さまもしもし新聞』の創刊時は、自宅の台所が編集室でした。
原稿を書くのは、皆が寝静まってから。けれど都営団地の自宅を、営利目的の仕事に使うことは禁じられていました。新聞を発行し続けるためには、どこか別の場所に事務所を借りなければなりません。部屋を借りて、電話を引いて、机も椅子も本棚も……。当時のお金で50万円が必要でした。一介の主婦に出せるお金ではありません。

助けてくれたのは母でした。台所のテーブルで編集作業をしながら、ふいと漏らした私の言葉に、母が「いくら必要なの?」と聞き返してきました。「50万円くらい」母にお金を借りようと話したわけではありません。なのに母は、「頑張ってやってごらん」と、タンス貯金をソロリと差し出してくれました。

母は励ましの名人でした。挫けそうになると、母を思います。「自分に負けちゃダメ」母が、そう言っている気がします。

PROFILE

長谷川豊子(はせがわとよこ):
『有限会社もしもし』専務取締役。1985年9月、『もしもし』の前身である『奥さまもしもし新聞』を一人で発行。以来第一線で、編集者として取材・執筆・広告営業にと走り続けてきた。


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