1. HOME
  2. [みらいへつなぐ]「戦死者たちからのメッセージ」を伝える武田美通(よしとう)の鉄の造形作品の保存を!

[みらいへつなぐ]
「戦死者たちからのメッセージ」を伝える武田美通(よしとう)の鉄の造形作品の保存を!

2024年夏に、パルテノン多摩で開催された多摩市平和展での展示の様子

毎夏開催されている、多摩市平和展。33回目となった2024年の同展で展示されていたのが、鉄の造形作家・武田美通氏の作品「戦死者たちからのメッセージ」でした。

武田さんは1935年、小樽の教員夫妻の子どもとして生まれました。戦時中、前線に臨む優しいお兄さんである兵士たちが家で過ごし、でも戻っては来なかったことをなぜなのかと思って少年時代を過ごしていたそうです。

大人になり、新聞社・テレビ局でジャーナリストとして働いていたものの、定年を前に退職。職業訓練所で溶接技術を修得し、60歳を前にして鉄の造形作家として工房を開きました。

当初はオーケストラや鳥、花など可愛いらしい飾りとなるものを創作していたようです。それが、有事法制、イラク自衛隊派遣と続いた世の流れに怒り、2002年、戦争を肌で感じた最後の世代として「戦争」をテーマにした骸骨の日本兵の制作に挑み始めたのです。

少年時代に家に泊めた兵隊を形にした「陸軍兵」は銃剣を構え、「出陣学徒兵士」は赤紙をかざします。そして、「特攻兵士」は人差し指をグッと見る人に突き出します。「あなたはあの戦争を忘れていないか! 今、あなたにできることはないのか!」と問いかけてきます。他にも、手榴弾の栓を抜いて乳飲子と共に自死しようとしている母親と乳飲子を描いた「残された数秒の母子のいのち」、敵ではなく自国に殺されていった「白骨街道」「自決する兵士」など、戦時下の理不尽が心を抉る作品の数々。

2004年、そんな武田さんの作品紹介記事を新聞で読んだのが、仲内節子さんです。すぐに武田さんに連絡をとり、工房を訪ねました。仲内さん自身は1945年の4月生まれで、戦争の記憶はありません。けれど、母親の「戦争はもうこりごり」という言葉や生まれ育った渋谷区笹塚の空襲の焼け跡は記憶に残っていて、戦争のない社会を作りたいと願って生きてきました。そこで武田さんの作品を一人でも多くの人に見てもらいたいと活動をスタート。市民ボランティア団体『武田美通・鉄の造形「戦死者たちからのメッセージ」を広める会』として、武田さん亡き後も展覧会を開催。沖縄の展示ではその反響の大きさに作品の持つ力を実感しました。

在りし日の武田さんと一緒に仲内さん(2011)

2011年、多摩市でも縁があって、展示が開催されます。

その縁で、多摩市南野の恵泉女学園大学、そして同大学の花と平和のミュージアムの協力の下、同大学で、同大学が買い上げた都立南野高校施設内での展示を開催するようになりました。そこには、花と平和のミュージアム発足時の、「次代に平和への想いをつなげていく」との思いがありました。

今、全30作品は、さまざまな思いを受け、多摩市南野の恵泉女学園大学とその花と平和のミュージアムの協力の下、同大学の一室で保管されています。ただ、同大学の2年後の閉校が決まり、武田さんの作品の保存が難しく、新たな保管場所を探しています。

武田さんの作品は、戦争のむごさと平和の大切さを訴えています。

この大切な作品を守り伝えていくにはどうしたら良いのでしょうか?

仲内さんが武田さんと出会った2004年当時の作品数は13。そして武田さんが亡くなった2016年時には30まで増えていました。武田さんのほとばしる思い溢れる作品を、しっかりと次代につなげ、見て、平和の大切さを感じとってもらいたい、そう、切に願います。

DATA)
武田美通・鉄の造形「戦死者たちからのメッセージ」を広める会
戦争の気配を感じた武田美通が、かつての戦争での戦死者たちになり変わって、死の直前まで命を削って作り続けた全30作品の展示を通して、平和を後世に残したいと展覧会を開催。展覧会の開催、作品保存等は、事務局長の仲内さんへ。TEL.090-7288-1489


#みらいへつなぐ #武田美通 #鉄の造形 #戦死者たちからのメッセージ #恵泉女学園大学 #花と平和のミュージアム #保存

関連記事