TamaHito 40
上田 紘治 さん
被爆者の自覚がない中、被爆者代表として選出
被爆者の自覚がない中、被爆者代表として選出
1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下されました。上田さんは3歳。自宅は当時の元柳町6、現在の中島町6で平和記念公園の中、爆心地から400メートルの範囲内にあります。
当時、父が召集され、母の実家近くの可部町(現在の安佐北区)に転居していた上田さん。投下時は、縁側に寝転がって祖母に本を読んでもらっていました。突然の閃光と爆音に驚き、上空から舞い落ちる落下傘を見て、「お月様だ!」と叫んだそうです。猛烈な爆音や閃光があり、「黒い雨」も降り注いでいますが、それらの記憶はないと言います。
上田さんの母は被爆者の救援活動に連日参加し、被爆現場を訪れたことで、「三号被爆者」に。そして連れられ広島市内に入った上田さんも「入市二号被爆者」になりました。
「でもね、被爆者との確かな意識を持たないまま、親の反対を押し切って東京に出てきたんですよ。当時は高度経済成長期。宵越しの金は残さない、って感じで、呑んで食べてましたね」
その上田さんが「なぜか」40歳の時、1982年6月、ニューヨークで開かれた第二回国連軍縮特別総会に、日本からの代表団の一人として選出されます。
「結果として、いろんなことがあり総会には出席できなかったのですが、これがきっかけとなり、生涯を被爆者運動・平和運動に身を投じようと決めたんです」
核兵器のない世界を被爆者として実現したい
「定年を迎え勤務延長の話をいただき一旦は働き続けましたが、6ヶ月で退職。その後は念願の被爆者運動・平和運動に専念できるようになりました」
そして上田さんは国内はもちろん、海外で被爆の実相を語る活動も開始。
「アメリカで話をすると、『では、パールハーバーをどう思うんだ』と必ず聞かれるんです。私は『日本の加害責任は事実だ』と謝罪し、『が、罪ない一般市民が犠牲になった原爆投下は別次元の問題』と、原爆被害の凄惨な実相を話しました。すると、皆が皆、話し終えた時ハグしてくれるんです。ここに人間の素晴らしさがあると思います」
「正直言って、皆さん、被爆体験は話したくない。あの凄惨な状況を思い出したくさえないというのが真情です。多くの先輩被爆者は生涯を核兵器廃絶を訴え、その日を待たずして亡くなりました。核兵器は人類と共存できません。核兵器のない世界を必ず実現したい」
「武力では、平和はこない!」そう、上田さんは話してくれました。
動画では、8/9に八王子駅近くの三崎町公園で、核兵器廃絶の呼びかけをする上田さんの話を聞くことができます。
プロフィール
1942年広島市生まれ。八王子市在住。原爆投下時は、爆心地の北方10kmの可部町で被爆。高校卒業後、自動制御・計測器メーカーに就職のため東京へ。以来、定年まで勤める。1982年、第二回国連軍縮特別総会への参加者に選出されたことをきっかけに、被爆者運動・平和運動に生涯関わろうと決意。東京都原爆被害者団体協議会事務局次長、八王子市原爆被害者の会事務局長を歴任。八王子平和・原爆資料館(TEL042-627-5271)共同代表。今年6月、『核兵器廃絶への思いー再び広島・長崎を繰り返すなー』を出版。