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『もしもし』長谷川豊子の生きるということ
 その1「生かされている理由…」

その1
「生かされている理由…」

今から38年前、松が谷団地5棟の206号室が『もしもし』の前身『奥さまもしもし新聞』の編集室でした。
新聞作りを始めたきっかけは、同じ松が谷地域で一家心中があり、1週間後に発見された出来事でした。
東京のベッドタウンとして発展した街で、こんなに人が行き交って、世の中がどんどん便利でおしゃれになっていく中で、人はプライバシーを守るために孤立し、近所の家族の死にも気づかない……。
薄れていく人間関係が、空恐ろしく思えたのです。

独身時代、私は編集の仕事に携わっていたものですから、すぐにミニコミ紙を作ろうと思いました。
でも、これは大問題。なにせ結婚をしたら専業主婦が当たり前の時代です。私は3児の子持ちで、資金ゼロ。夫は昭和生まれで亭主関白世代の人だったから、「新聞を作ります!」と宣言をしたら、むろん猛反対でした。「君は今の生活に不満でもあるの?」と言うのです。思いを伝えても、頑として考えを曲げません。

いつもなら折れる私ですが、このときは後へは引きませんでした。
創刊号は昭和60年9月1日。手書きの媒体資料をコピーして、広告を取るために近くの団地商店街を軒並み営業に歩きました。
月2回、各2万部発行。キャッチコピーは「人の温もりを大切に、人と人を繋ぐヒューマンネット」みたいな内容でした。

見ず知らずの方に、いきなり話し掛けることはできないから、ミニコミという媒体を通して「もしもし、お元気ですか?」「もしもし大丈夫ですか?」と寄り添うような新聞で、人と人を、人と街を繋げたいと思ったのです。

けれど、創刊号の2万部は山のような量でした。
昼は家族総出で、夜は子どもを寝かしつけた後、あんなに反対していた夫も一軒一軒ポスティングに歩いてくれました。

以来35年間、夫は私の最大の応援団長として、『もしもし』を支え続けてくれました。

3年ほど前、私は第一線を離れました。
そして今、私は病気で寝たり起きたりの生活を送っています。歩けば足もふらつくし、長い時間は起きていられないし、思いはあっても体も頭も自由自在には動きません。そんな自分がもどかしくて、心が負けそうになります。

けれど、『もしもし』の創業者として、へこたれるわけにはいきません。
新聞作りは挑戦と試行錯誤の連続でした。振り返れば、苦しいときほど学びがあり成長がありました。
だから今が辛くても、私にはこの試練に意味があると思えてならないのです。
命が続く限り、私は『もしもし』の一編集者として挑戦をし続けます。生かされていることへの感謝の思いで、書き続けたいと思います。

PROFILE

長谷川豊子(はせがわとよこ):
『有限会社もしもし』専務取締役。
1985年9月、『もしもし』の前身である『奥さまもしもし新聞』を一人で発行。以来第一線で、編集者として取材・執筆・広告営業にと走り続けてきた。


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