TamaHito 03
浅井 典子さん
50年間も多摩市に住んでいた ことに感謝しています
わらべうたや歓喜の歌 皆で歌い演奏した日々
あらゆる場所の団地に応募したものの、30回落選。そして、やっと辿り着いたのが多摩ニュータウンでした。
「50年前の第一次入居の時です」と浅井さん。当時、“陸の孤島”“文化のはてる所”とも言われた地でした。
「でも嬉しかったですね。東京で生まれ、3月10日の東京大空襲で疎開。その後も家族で転々としてきましたから。戦後初めての自分の家だ!と」
それまで保育士として働いていた浅井さんですが、長女の就学を控えていたため、就職は考えていませんでした。
「それが、引っ越してきたら、子どもの元気な遊び声が聞こえてきたんです。足が向かうと、そこは開園したばかりの『ゆりのき保育園』。園長自らが庭の土塊を拾い、草花を植えていました。“保育士がいないんです”と聞き、迷いながらもすぐに就職しました」
園庭に、まだ遊具などない状態で、どんな遊びができるかと、浅井さんをはじめ職員は考えます。
「全国から人が集まってできたまちでしょう。ああ、それぞれの地のわらべうたで遊ぼうとなったんです。木版で“わらべうたかるた”も作りました」
心地よいリズム、楽しいことばに自然と心が開き、体が動き、子どもはもちろん大人もわらべうたに魅せられていきました。そして、多摩ニュータウンのどこの園でもわらべうた遊びが盛んになっていったと言います。
「また、保護者には、戦争で引き揚げや空襲を体験した方も多かった。その皆さんに喜んでもらえればと、クリスマス会でベートーベンの“歓喜の歌”を子どもたちが合奏しました。今でも数園で歌い継がれているんですよ」
今年はベートーベン生誕250周年。多摩ニュータウンで歓喜の歌が歌われて50年。「遠く離れた場所がつながっているようで、嬉しい」と浅井さん。
高齢者も若者も共に暮らすまちです
「多摩ニュータウンは高齢者のまちとよく言われます。でもそれは違う。高齢者も若者も共に暮らすまち、上手に支え合えるまちだと、私は思います。
“いないいないばあ”という遊びがあるでしょう。あれは、“あなたの大好きな人が見えないね、でも、ほら、帰ってきたよ”ということだと思うんです。これはこのまちにもつながっています。若者に、“さあ、世界へと行ってらっしゃい。でも、また戻ってきてね”と。そんなまちだと思います」
「50年、ここに住んでいたことが幸せだ」と浅井さんは話します。
浅井さんが呼びかけ人の1人として活動する「全国わらべうたの会」で作る、わらべうたのポストカード。
プロフィール
1971年、第一次入居で多摩ニュータウンへ。子どもたちの元気な声に導かれるように、開園まもない『ゆりのき保育園』に就職。『かしのき保育園』開園に伴い異動、園長を務める。退職後は、『かしのき保育園」に隣接する永山ハウス1F『子ども文化ギャラリーりんごのき』を主宰。「全国わらべうたの会」呼びかけ人の1人。多摩市在住。パルテノン多摩で開催中の「みんなで語る多摩の宝物 未来へつなげる地域遺産」でメッセージを紹介中(3/31まで)