モリテツのスペイン紀行 ❻ 「偉才と異彩1」(マラガ2)
地中海に面し、欧州とアフリカ大陸を結ぶジブラルタル海峡の100㌔東方にあるマラガは、かつてはイスラム勢力に支配されたこともあり、ノスタルジックな雰囲気がある港町だ。フェニキア語の「マラカ(塩)」が語源。魚の塩漬けが名産だったのが所以らしい。今では、マドリード、バルセロナ、バレンシアに次ぐスペイン第4の経済都市。
市街地はほぼ1㌔四方。この範囲にほとんどの施設が揃っており、どこへ行くにもぶらり感覚で歩きやすく便利。
マラガを訪れた観光客が必ず足を踏み入れるのが「ピカソ美術館」。いうまでもなく、マラガはピカソの生誕地。マラガ経済はピカソで支えられてもいる。
美術などまるで疎い吾輩だが、これもまた関所手形。一度は目にしておかねばならない。
マラガ2日目の朝も雲のない真っ青な空が広がる晴天。乾いた空気が爽やかだ。まずは市街の東北、一番離れているピカソの生家を訪ねてみようとサングラスに短パン姿で出かけた。
マリーナ広場から市庁舎前を通り、古代ローマのアルカサバ要塞にあるローマ劇場に立ち寄り、向かいのヒブラルファロ城から市内を展望。 坂道を下りてメルセー広場にたどり着いた。
ピカソはマラガを離れる10歳までこの広場で鳩と戯れていたという。今はベンチの隅にスケッチブックを手にした銅像が鎮座されている。
今から139年も前、明治14年にこの建物が当時現存していたのだろうか? モダンすぎる。生家はマラガ市役所が管理。この建物は「CASA DE CAMPOS」(田舎の家々)と呼ばれているとか。この2階に妹2人を含む5人家族で住んでいたという。3ユーロで博物館仕様のアパート内部を観覧できる。入るとすぐに、19世紀の調度品を揃えた応接間がある。 食卓やソファ、妹たちが洗礼に使ったドレスやピカソが纏ったマントなども展示されている。1881年10月25日生まれのピカソの生誕を彫った石版も。実は、ピカソの本名は異常に長い。
パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・チプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・ピカソ。
「なんじゃ、これ?」といいたくなるが、聖人や親戚一同の名を見境もなくくっつけた感じである。
父ホセ・ルイス・イ・ブラスコは工芸学校の美術教師。少年の頃から異彩を放った作品を描く息子に、絵描きの父は己の絵筆を捨てて指導に打ち込み、その偉才に惚れこんだ。
芸術的環境を求めて父は転勤を希望したのか、コルーニャ、マドリード、バルセロナに職を求めた。息子に絵道具のすべてを譲ったのは、コルーニャの美術学校に入学した11歳の時だ。
16歳で国展の佳作に入賞、同時にマラガの地方展では金賞に輝き、脚光を浴びてマドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入った。以後、77年間の長きにわたって特異の才能を発揮、今世紀最大の画家に昇り詰めるのだった。
活動の本拠地はパリ。1973年、南仏の避暑地コートダジュールで人生を閉じている。93歳。
生家の近くには、ピカソが洗礼を受けたサンティアゴ教会がある。両親が結婚式を挙げた場でもある。15世紀に建てられたマラガ最古の教会。ゴシックとイスラムのムデハル様式が溶け合い、褐色の外装に趣がある。内部は白を基調に、装飾は華やかにしてしっとりとした雰囲気。洗礼台は、ピカソが洗礼を受けた時のままだという。
さすがに腹が減った。いつも朝食は食べないけれど、朝から歩いてさすがに参った。ピカソ美術館に行きかけて、「BREAKFAST」の看板を見つけた。小綺麗な店で店内もすいている。朝食にはおあつらえ向きのエッグトースト。 トマトとアボカドも添えられ、塩味が心地よかった。
プロフィール
森哲志(もりてつし)
作家・ジャーナリスト。日本エッセイスト・クラブ会員。国内外をルポ、ノンフィクション・小説を発表。『もしもし』の「世界旅紀行」は、アフリカ、シルクロードなど10年間連載中。著書近刊に退位にちなんだ「天皇・美智子さま、祈りの三十年」(文藝春秋社・2019.4月刊)。月刊「文藝春秋」3月号に「天皇ご夫妻と東日本大震災」掲載。「団塊諸君一人旅は楽しいぞ」(朝日新聞出版刊)など著書多数。
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