1. HOME
  2. Tama Hito 51 工藤 秀美さん人とつながり、世界を広げる楽しさをいくつになっても

Tama Hito 51
工藤 秀美さん
人とつながり、世界を広げる楽しさをいくつになっても

人との関わりを大切に、まちづくりを続ける

「あの時は聖蹟桜ヶ丘駅前の銀行にいて、『少し強い地震かな?』とその場にいた人々と避難待機して、準備ののちに外へ出て、何事もなく自宅に戻りました。そうしたら、びっくり! 大地震発生、津波発生! 知人は帰宅困難者となり、都心から歩いてやっと帰ってきたという惨状。時々刻々と東北の壊滅的な状況がテレビなどで報道され、まさに東北全体が全て流されてしまったような気がしました」

2011年3月11日の東日本大震災です。

実はその2ヶ月前の1月26日に、大学時代からの恩師・内田雄造さんの、68歳という若さでの突然の訃報に接していた工藤さんにとっては、ダブルパンチの大打撃でした。

工藤さんは28歳の時、内田さんと共に高知市の被差別部落の環境改善事業に取り組みました。その後も、日本各地で地域の方とまちを見つめてきました。

「地域に住み、地域の人たちと一緒に考え、話し合い、行動する。いわゆる住民参加の住民主体のまちづくりのはしりだったのかもしれません。『まちづくりはハードだけではダメ、人との関わり方が大事なんだ』と内田さんから教わりました」

その大切な内田さんを失い、2011年は内田さんとの別れの一年となり、追悼文集『ゆっくりと ラジカルに』の発刊にも力を注いだ工藤さん。

「それでもまだ自分の中で心の整理ができなかったんです。そんな時に、ある方から『内田氏のもとで学んだのに、何をしてるだ』と言われ、『今こそ何かやらなきゃいけないんじゃないのか?』と東日本大震災の被災地に向かうことを決め、移住をしました」

経験を重ね、つなげ、広げていくことが大切

宮城県女川町で復旧復興支援活動をする中で工藤さんが出会ったのが、かつては日本製硯の90%を生産していたといわれる雄勝硯です。昭和の後半から衰退し始め、東日本大震災で大打撃を受けました。その唯一とも言える職人・遠藤弘行さん(エンドーすずり館)や波板地区(玄昌石硯)の皆さんに工藤さんは出会い、その歴史や文化に魅せられ、通い、教えてもらい始めました。

「手彫りの硯作りは、全力で精神力を注いで無我夢中でやるから楽しい」と工藤さん。硯は仙台の展覧会で連続入賞を果たしています。そして、硯を作りながら「文字を描き、水墨画へも挑戦」と夢を広げます。

「まちづくりはプロとしてずっと取り組んできた私の仕事です。で、その過程で出会った硯作り。その地に行ったから発見した、学んだ出会いでした」

実は帰京直前に気仙沼市で知り合った掛け軸のプロ(恵比寿屋表装店・内海拓男社長)にも「やりたい!」と直接掛け合い、これから遠距離指導を受けるのだとか。

「世の中にこんなに面白いことが、楽しいことがあるんだと気づいたら、まだまだいろんな世界を広げられると思ったんです。そしてそれらを皆の生活に反映できる方法を模索したい。これこそ『まちづくり』ですね」と工藤さん。

自分の世界を広げ、それを周りにも伝えることに貪欲な工藤さん。常に前に前に進むその姿は圧巻です。

工藤さんが編集に携わった内田氏の追悼文集『ゆっくりと ラジカルに』と自作の硯とともに

プロフィール

1949年生まれ。多摩市在住。東洋大学理工学部で内田雄造氏のもとで学び、学生時代から住民参加のまちづくりに携わり続ける。2012年、宮城県の復興支援で女川町に移住。以来、10年間にわたり、女川町の復旧・復興業務に関わる。その間に、手彫りの硯づくりも始め、さらには象形文字を習い、掛け軸の制作にも励む日々を送っている。「ひとアンドまち研究所」(TEL.090-2207-9066)代表。東洋大学非常勤講師等。

関連記事