『もしもし』長谷川豊子の生きるということ
その20「母は太陽」

その20
「母は太陽」
5月第2日曜日は母の日。
我が母〝とき〟は、茨城県筑波山の麓で明治44年に生まれました。
幼い頃に病で失聴。
決して裕福とはいえない暮らしで、小学校に通うことなく農作業を手伝い、登校する友達の姿をうらやましく見ていたと。
幸せを夢見て結婚したものの、夫はアルコール依存症に。
仕事から帰ると必ず酔っぱらっていて、末っ子の私は「酒を買ってこい」と使いにだされたものです。
当然、店は閉まっていて、空き瓶を手にそっと家を覗き込み、父が寝ているのを確認しては息をひそめて家に入り、布団に潜り込みました。
当時を思い返すと悲惨な状況だったはずなのに、常に前向きだった母の姿が浮かびます。
その中で、私は経済力の必要性を痛感し、一日も早い自立をと決意。
中学卒業後は就職。
家を出て、働きながら夜間高校に通い、友人との共同生活を送りました。
給食を食べ終えた時にパンが余っていたらもらって帰り翌日の朝食に回したり、洗濯板を使って洗濯したりと、つましい毎日。
けれど、勉強することは楽しかった!
「学問は、暗黒を照らす、真実の太陽である」は我が師の言葉。
後年、父は穏やかな好々爺に、母は不思議にも耳が聞こえるようになり、仲の良い夫婦として奮闘する私を支えてくれました。
置かれた環境に負けることなく、今ある自分は幸福だと感謝し、その感謝を恩返しに変え周りを励ます人になっていたからだと思います。
「母は太陽。太陽は輝いてこそ太陽」ー私の大好きな言葉です。
私も太陽となって次へとつなげていきます。
PROFILE
長谷川豊子(はせがわとよこ):
『有限会社もしもし』専務取締役。1985年9月、『もしもし』の前身である『奥さまもしもし新聞』を一人で発行。以来第一線で、編集者として取材・執筆・広告営業にと走り続けてきた。
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